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『小さな音楽会』ご報告

チェロの音色と祈り小さな音楽会』ご報告

宮沢賢治の童話『セロ弾きのゴーシュ』にこんなエピソードがあります。

毎日、夜遅くまでセロ(=チェロ)の練習をしているゴーシュのもとに、

ある晩、野ねずみのお母さんが病気の子供を連れてやってきます。

セロの音色で子供の病気をなおしてほしいというのです。

 

「はい。ここらのものは病気になるとみんな先生のおうちの床下にはいって

 癒(なお)すのでございます」

 

「すると癒るのか」

 

「はい。からだ中とても血のまわりがよくなって大へんいい気持ちで

 すぐに癒る方もあれば、うちへ帰ってから癒る方もあります」

 

「ああそうか。おれのセロの音がごうごうひびくと、それがあんまの代わりになって

 おまえたちの病気がなおるというのか。よし。わかったよ。やってやろう。」

 

五月九日、こども夢基金の支援を受け、チェロ奏者の江原望さんと、福島県いわき市の被災地を訪問し「小さな音楽会」をひらきました。現地で被災者の精神医療にあたっておられる緑川医師ひきいる

「こころのケアチーム」と行動を共にしました。

 

震災から二か月が過ぎたいまも、被災地では避難所生活を強いられている方がたくさんいます。

その多くが津波で家を失った方です。わたしたちはまず、緑川医師の指導のもとに、

避難所に充てられた体育館を訪問し、被災者ひとりひとりに話しかけることから始めました。

もちろん、わたしも江原さんもカウンセリングなどできません。

しかし、緑川医師によれば、被災者の話を聞く、それだけでも心のケアになるのだそうです。

 

身寄りがなく、友だちとも別れ別れになり、一日ぽつんと座っているお年寄りがいます。

他県から就職してきたのに会社が消滅し、途方に暮れている若者もいます。

悲惨な体験をへてきた人に声をかけるのは勇気がいります。

しかし、ためらいながらも話しかければ、おだやかな声で言葉を返してくれます。

 

「みんな、新しいのに変えろというんだけど」と、あるお婆さんは

掴まり歩き用の古びたカートをわたしに見せてくれました。

「ぼろぼろだけども、十年以上も使ってきたんだから、わたしはこれがいいのよ」

壊れた家から持ち出してきた、数少ない物のひとつです。

錆びついて壊れかけのカートを愛おしそうに撫でていた、皺だらけの手が忘れられません。

夜は車輪が音を立てて周りに迷惑をかけるから、なるべくトイレに行かないよう、

昼間から水分をひかえているそうです。

「飲まないと体に悪いって言われるんだけどなあ」と、すまなさそうに顔をうつむけるのです。

 

江原望さんは日本フィルハーモニー交響楽団のチェロ奏者です。

一般の演奏会の他に、これまで数々のチャリティーコンサートを開いてきた方です。

体育館の片隅を借り、「みなさんの心の癒しになれば」と挨拶をしてから、

江原さんはチェロを奏で始めました。

ダンボールの仕切りの陰から被災者の方が顔を出し、

ひとりまたひとり、江原さんの前に集まってきます。

 

「上を向いて歩こう」から始まり、「アメージング・グレース」や「五木の子守唄」など

馴染みの曲、そして江原さんのオリジナル曲「空へ」や「かっこう」も弾いてくださいました。

「かっこう」は、『セロ弾きのゴーシュ』にあるエピソードのひとつから曲想を得ています。

哀調を帯びたチェロの重低音。響きは、エンドピン(底に付いた金属の支え)から

体育館の床板をとおして、わたしたちの体に伝わってきます。

音を耳ではなく全身で聴いているような感覚でした。

 

『セロ弾きのゴーシュ』のゴーシュは、病気の子ねずみをチェロの中に入れて演奏し、癒しました。

チェロの響きが病に効いたのです。こうして、床にお尻を置いて響きを感じていると、

なるほどと思います。心身の深いところに音色は浸透していきます。

 

チェロの形は母体に似ています。チェロの音色を聴いていると、

わたしたちは何か大きなものに包まれているような感覚を受けます。

宇宙の深遠さを感じさせる音色です。

もちろんそこには、江原さんの人柄も要素として加わっているのです。

 

宮沢賢治は『農民芸術概論網要』にこう書いています。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と。

いま、そう考えている日本人は多いのではないでしょうか。

震災は大きな悲劇をもたらしましたが、同時に新たな希望を生み出したのだと、

わたしはそう信じます。

 

体育館では一回四十分くらいの演奏を、場所を変えながら三回しました。

午後は、江原さんは保健所でお母さん方への演奏をし、

わたしは「こころのケアチーム」に同行して別の避難所に向かいました。

午後四時、保健所で合流。江原さんの、保健所スタッフをねぎらう演奏会が始まりました。

保健所スタッフは震災以降、被ばく検査やヨウ素剤の受け渡し、

お母さんの母乳相談からペットの相談まで次々に寄せられる市民の要望に応え、

心身をすり減らしています。ロビーで演奏会が始まると、

チェロの音色を耳にした保健所スタッフが仕事の手を休めて集まってきました。

二階、三階の回廊の手すりにもスタッフが並びます。

そして、放射能のクリーニングにあたっている自衛隊の青年たちも、

迷彩服の姿で、じっと聴き入っていました。

 

湧きおこる大きな拍手。おかげさまで第一回の「小さな音楽界」は無事に終了しました。

被害の大きさに比べたらわたしたちにできることなど微々たるものかもしれません。

しかし、まず自分に出来ることから始めなければ一歩も前には進めません。

無力感に負けず、「上を向いて歩こう」です。

 

 

志賀 泉 <しが いずみ>

『指の音楽』(筑摩書房)で太宰治賞受賞

『TSUNAMI ーつなみー』(筑摩書房)発行

 Web超短編小説『新明解国語事典小説』の連載開始

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