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アートの力

長崎市で起こった幼児殺害事件をめぐって世間では大騒ぎである。やれ少年法に問題があるとか学校教育の現場の取り組みとか、地域社会の在り方とか、神戸事件と重ね合わせながらてんやわんやの大騒動だが、そこで論じられている対処療法的な論議は私には的外ればかりのような気がしてならない。例えば、こんな例がある。

 

ある保育園が凧上げをテーマにお絵かきをしている現場を通りかかった時のこと。一人の女の子の絵をのぞくと真っ青な空に凧と一緒に大きなベットが描かれているのにびっくりした。もちろん私には予想をはるかに超えた構図(環境空間)だっただけに思わず尋ねた。「へぇー、お空にベットとは面白いね?」。ところがところが返ってきた動機にはもっとびっくりしてグゥーの音も出なかった。「だってぇ、タコさんも広いお空の中できついだろう。休ませてあげなくちゃ」。あの女の子は、今、どんな風に育っているだろう。あれは凧を作り凧上げ遊びをした、ほんの身近な経験から彼女の内なるやさしさを獲得していたのである。先生も含めて世間の大人は、彼女が自らの手で育んだモラル(生き方)に対してどんな手助けをしてやってきたのだろうか。

 

一般に芸術というものはいつも世間から誤解されてきた。ことに日本では芸術をつくってきた百人百様のモラル(生活態度や空間感覚)を棚上げして、あるときは文化勲章受章者に代表されるように、ことさら価値を持ち上げ過ぎ、世間並みの制度の中に位置づけようとする。そこでは、芸術が発しようとしている真意は二の次で、ひたすらそれを番号制度に格付けしてしまう。学校教育から次第に美術や音楽の時間が減り、農作業や理科の実習時間が減って、促成の受験競争の制度のレールに日本の社会中が寄ってたかって乗せようとしてしまった。

 

殺し合いばかりがテーマのゲームセンターの遊びも、本当の戦争に目隠ししバーチャルな促成環境を錯覚させてしまう。芸術というものは、そうした促成環境とは対極の遊びそのものであって、色を塗り、木や金属を切り、作業の手足を動かして作り上げる環境(空間感覚)なのです。

 

私達の日常の食卓も、着ている衣服も、寝ている住宅も、都市像も、あの女の子の感性が作り上げてきた環境なのです。

 

田中 幸人 <たなか・ゆきと>

 

1938年生まれ

こども夢基金アートプロジェクト委員

熊本市現代美術館館長、美術評論家

毎日新聞編集委員、埼玉県立近代美術館館長を経て

2002年より現職に。

 

※2004年3月26日 永眠

 

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